三月の家のリビングに招かれた那由他。だが、その様子からは生気が感じられず、雨の音だけがその空間に響いていた。
「とりあえず、風呂を貸そう。濡れたままじゃ風邪を引く。……何があったのかは知らないが、わざわざ私の家を訪ねてきたと言う事は其れ相応の事があったんだろうしな。……長い夜になりそうだ…………。」
三月は雨音に耳を傾けながら、窓越しに映る夜の街を眺める。遠くを見つめるその瞳の先に見える景色は、現在(いま)の物なのか、其れとも自らを縛り続ける三年前の物なのか――。
「何やってるんだろう、あたし……。」
体を浴槽に沈めながら、那由他は一人呟く。頭の中を駆け巡るのはここ最近の事ばかりだ。自分は"三年前"と同じ悲劇を避けようと動いてきた。だが、永瀬
の帰郷、そして再び走り出した本条の噂。全てが自らの望まぬ方向に進んでいるようで、只管に「彼女」との思い出の場所を守り続けてきたはずの己の無力さ、
そして道化のような姿に自嘲の言葉すら浮かばない。また何時か、誰かが命を落とすのではないか。其れを考えると、頭の中に一台の車が浮かび始める。白い
Z32型フェアレディZ。しかし、その車体はバブル期特有の美しい流線型ではなく、ひしゃげ、歪んだ物となり、彼女の思考を支配する。
「――――ッ!」
一瞬こみ上げる吐き気を抑えながら、彼女は浴槽から上がる。そして三月が用意した服を着、リビングにへと戻る。其処には服を少し塗らした三月が、自らの愛車のキーを片手にソファーに座っていた。
「悪いが、ずっと家の前に止められていても困るんでね。勝手だとは思ったが、あのHCR32はガレージに移動させてもらったよ。……で、服の方はサイズ、大丈夫だったか?」
三月の言葉に対し、那由他は敢て嫌味をこめて返答をする。
「胸も背丈もでかすぎるのよ、この薄らデカ女。……でも、ありがと。」
那由他の言葉に軽い笑みを浮かべると、三月は自らの隣へと那由他を座らせ、少し呼吸を整えてから口を開く。
「さて、群れる事を嫌う、君のような走り屋が、それもわざわざ"三年前"を嫌でも思い出さずには居られないような相手の元を訪れる……。気になる事だらけだが、どこから話を聞いたものか――。」
考えながら言葉を発しようとする三月、だがその言葉を遮るように那由他が声を放つ。
「……今日、六甲から香坂って男が来たわ。そいつは永瀬を探してた。そいつが言うには、永瀬はFC乗りを狙ってる。……既に降りてるとも知らず、どっかの
誰かさんをね。……どうして?ねえ、どうして今になって三年前の出来事が繰り返されそうになるの!?あたしは、あたしはただ……守りたかっただけなのに!
教えてよ!あんたがアイツを連れてきてから全てが狂い始めた!このままじゃまた死人が出る!……返してよ……あたしの居場所を返してよ……ッ!」
その語気は徐々に荒くなり、やがて懇願にも近いものにへと変わっていった。だが、三月はその言葉に対して表情を変えず、席を立つと、棚の中から一つの
キーを取り出す。マツダのロゴが刻まれた其れは古ぼけており、コスモの物とは異なる形状だった。彼女はそのキーに目をやると、自嘲とも取れるため息を吐き
ながら、那由他をある場所にへと連れ出す。
黒いコスモ、黄色いHCR32が並ぶ其処は三月のガレージであり、其の奥にはボディカバーを被った一台の車が止まっていた。
「もう、この車に乗る事は決して無いと思っていたのにな……。」
そう言いながら、ボディカバーを取り払う三月。ガレージの奥に鎮座していた其れはコスモと同じ、黒いボディを纏ったロータリーロケット。だが、コスモよ
りも古く、そして歴戦を駆け抜けてきたであろう傷痕がボディに刻まれた其の車は、マツダ・RX-7――それも唯一コンバーチブルのボディを持つ異端のモデ
ル、FC3Cだった。其の車体は常に整備されていたらしく、三月の言葉に反し、何時でも走れるような状態を保っている。
「あんた……ッ!」
存在しないと思っていた車が現われた事に驚きの表情を隠せず、三月を睨みつける事しか出来ない那由他。だが、彼女の目線を気にする事もなく、三月は其の車体を愛でるように撫でながら、独り言のように呟く。
「笑いたければ笑うがいい、侮蔑したければするがいい。私も、“三年前”から動けない人間なんだ――。」
三月はガレージのシャッターを開けると、FC3Cに乗り込む。そして、那由他を其の助手席にへと誘う。
「折角だ、積もる話はあの場所でしようじゃないか……。」
加賀谷をゆっくりと走るFC3C。だが、二人とも言葉を発さず、那由他は其の車窓から流れる景色を眺めていた。それに気付いた三月が気遣うように言葉をかける。
「やはり、三年前を思い出すこの車は不快だったか?……すまない事をした。」
「いや、そうじゃない……。ただ、あの頃を思い出していただけ……。」
心此処に在らずといった様子の那由他に対し、三月は愛機に鞭を入れることで応える。NA化されたその鋼の心臓はロータリー特有の、ラグを感じさせない
モーターのようなフィーリングで高回転まで駆け上がると、ペリフェラルポート特有の切り裂くようなノイズを発しながら加速していく。恐らくは那由他にとっ
て其れは初めての体験であっただろう。普段は人を食った様子で本気を見せない三月が、その口を噤み、走りで全てを表そうとしている。FC3S/FC3Cに
搭載される13Bエンジンは今の基準から見ると決してハイパワーなエンジンだとは言えない。ましてや本来搭載されていた過給機を取り外し、NA化すれば尚
更である。だが、このエンジンはドライバーと同じく、“普通ではない”のだ。加賀谷の山頂までの道を、黒いロータリーロケットは異次元のスピードで駆け抜
けてゆく。その姿はまるで乗り手の名、「烏」を彷彿とさせるように――。
時刻は既に午前二時を回り、峠を下る一台の車が居た。車種はBNR32。箱根のナンバーを装着した其れはBNR32としては珍しい白いボディカラーに目
立つカーボンボンネットや大型のGTウイングを装備し、走り屋の車である事を示すには十分だったが、そのドライバーは苛立っていた。求めている者が居ない
からだ。フロントウィンドウを叩く雨粒が嫌でもストレスを加速させ、自然とアクセルを踏み込む足にへと力を込めさせる。だが、その時だった。下から登って
くる一台の車。そのノイズはロータリー特有のものであり、また其のドライバーはこのノイズを知っていた。笑みを浮かべ、より強くアクセルを踏み込んでゆ
く。一刻でも早く、其のノイズの持ち主と「出逢う」為に。そして、ストレートで二台のマシンは交差する。黒いFC3Cと白いBNR32。だが、FC3Cの
ドライバー――三月にとってはBNR32の存在は眼中にすらなく、恐らくはすれ違った事にすら気付いて居ないだろう。しかし、BNR32のドライバーは運
転席で独り呟く。其の言葉には期待と喜びが入り混じり、やがて訪れるであろう新たな波乱を予感させるものだった。
「“死神”烏羽 三月のFC3C――まさか、偵察に来た当日にこんな収穫があるなんて、運命と言うものなのか、其れとも唯の偶然なのか……。面白い事になってきたもの……。次はこの舞台(ステージ)、加賀谷を陥落(オト)す――。」
一方、山頂に到着したFC3Cは駐車場に其の車体を停め、サイドウィンドウを開くと雨の臭いのする、夜特有の空気を車内にへと取り入れる。三月はドアを開くと、自動販売機から三人分の缶コーヒーを購入し、車へと戻ってくる。
「“彼女”に何も持っていかないというのも、嘗ての友としてどうかと思ったからな……。ほら、君も一本どうだ。」
「ん……ありがと。しかし、初めて見たわよ。アンタの本気の走り。あれだけの腕があればもっと上だって狙える。アンタにはそれだけの財力もある。例えば、だけど『そういう世界』は目指そうとか思わなかったの?」
コーヒーを口にしながら、那由他は冗談交じりに三月に悪態を吐く。だが、三月は其の冗談に対し、冷徹な声で答える。
「私は……もう、そういった事を考えるには遅すぎるからな……。それに、今更日の当たる場所に出ようとだとは思わない。日陰者のままでいいのさ。……其れが己に対する罰、なのかも知れないがな――。」
那由他はそんな彼女の様子を見ながら、独り言のように呟く。
「“死神”烏羽 三月。黒いFCでリスクを省みないバトルを繰り返し、四天王の中でも最も速く、そして危険だと言われた走り屋。……そんなアンタが、今じゃ丸くなっちゃって、なんだか調子狂うわね。……尤も、あたしもあの夜から似たようなものかもしれないけれど……。」
三月は愛機の心臓に再び火を入れると、唯、一言だけ言葉を発する。
「過去は振り切れやしない――。」
其れがあの事故のことなのか、自らの過去のことなのかは三月以外には解らない。だが、那由他は其の言葉に口を噤むと、再び無言のドライビングが始まっ
た。雨で滑りやすくなっている路面を感じさせない、異常なペースで加賀谷の下りを攻めるFC3C。其れは弔いの走りなのか、“彼女”の元へと向かおうとす
る自暴自棄な走りなのか――。互いに言葉を交わさず、ウィンドウ越しに映る景色を睨みつけるように眺める二人。そしてFC3Cは加賀谷の終盤。今でも色濃
くブラックマークが残り、ひしゃげたガードレールが“三年前”の事故を思い出させる場所にへと辿り着いた。ガードレールの向こうには走り屋達が作った小さ
な墓標がある。だが、其れは歪んだホイールを使って作られたもので、その下に供えられた花や缶ジュース類が、“彼女”に対する走り屋達の想いの強さを表し
ていた。
「あの夜も、こんな雨だったな――沙耶。」
三月がそう墓標に呼びかけると、二人は空にへと視線を移す。そう、全てが始まったあの日へと――。
三年前、加賀谷は走り屋の聖地だった。四天王と呼ばれる走り屋達が存在し、名も無き走り屋達もその頂を目指し、切磋琢磨する。そんな場所に、免許すら持っていない、場違いな少女――神碕 那由他が現われたのは、友人の誘いによるものだった。
「わ、わたしはこういう所いいからさ、真由だけで楽しんできなよ……。」
「何言ってるのさ、那由他!普段学生で真面目やってると疲れるでしょ?たまにはあんな硬っ苦しい家なんて抜け出してさ、パーッと騒がなきゃ!あ、『ハチロク』だ!すいませーん!写真撮ってもいいですかー!?」
真由と呼ばれた其の友人は、那由他をその場に置き去りにすると、次々と走り屋達の輪の中に入っていく。所謂、ミーハーと呼ばれる人種なのだろう。彼女の様子を、那由他は遠くから見つめていた。
「結局、真由だけで楽しんでるじゃない……。それにしても、夜の峠って音が凄いし、活気がこんなにもあるんだ……。」
自動販売機の横に座り込むと、走り屋の車を眺めてゆく。だが、彼女には車の知識などない。友人が言っていた、『ハチロク』すらどの車の事なのかさっぱり
だ。そして、普段は規則正しい生活を強制されていた彼女にとって、深夜の活動と言うものは非常に睡魔を誘うものであった。其のまま、友人が飽きるまで眠り
についてしまおうか。そんな考えにまどろみながら、顔を伏せていた彼女の頬に冷たいジュースが当てられる。其の感触に驚き、顔を上げると其処には20代程
の女性の姿があった。
「もしかして、ギャラリーに来たけど気分が悪くなっちゃった、とかかな?あ、私は柚之原 沙耶(ゆのはら さや)、宜しくね!」
沙耶と名乗る女性は那由他の手を引くと、自らの車にへと案内する。白い流線型のスポーツカー。彼女は自慢げにその前に立つと、車の紹介を始める。
「これが、私の車!フェアレディZ、Z32って言うんだ!うふふ、可愛いでしょう!」
そしてZ32のドアを開くと、那由他を助手席にへと誘導する。
「……ちょっとね、やっぱり峠の走り屋の中には下心ある奴も居ないでもないから。私の車の中で、ゆっくり休んでいきなよ。大丈夫、私は顔が広いから、悪い奴が出たら一発でやっつけちゃうから!」
自信満々に話す沙耶に対し、那由他は其の車内を見ながら、ふと呟く。
「峠を走る事って……そんなに楽しいんですか……?」
其の言葉に沙耶は一瞬驚いた様子を見せるも、那由他の事情を悟ったのか、シートベルトを締め、エンジンをスタートさせる。
「それじゃあ、実際に体験してみよっか?……気持ち悪くなったら、何時でも言ってね。……それじゃ、行くよ!」
スタート地点から白煙を上げ、加速していくZ32。峠には凡そ不釣合いな巨体ながら、小型FRスポーツ……ロードスターやAE86、そう言った車のよう
に自在にコントロールし、軽々とコーナーを駆け抜けてゆく。スピードとノイズ。流れる景色。初めは恐怖だった其れも、次第に慣れると、遊園地のアトラク
ションのような快感にへと変わってゆく。もっとスピードを感じたい。もっと流れる景色を見続けていたい。那由他にとって、世界が変わった瞬間だった。
「どうだった?初めての“峠”は?」
頂上に停車したZ32の運転席から、沙耶が那由他に向かって話しかける。
「最初は怖かったけど、楽しかった……です。こんな事を、沙耶さんは毎晩やってるんですか?」
「やだな、沙耶さんだなんて。“お姉ちゃん”でいいよ。ちょうど、君……あ、名前聞いてなかったね……は妹と同じくらいの歳みたいだし。」
沙耶の様子に微笑みながら、那由他は笑顔で口を開く。
「私は那由他、神碕 那由他です。宜しくお願いします。“お姉ちゃん”。」
この日を境に那由他の生活は大きく変わり始めた。深夜になると家を抜け出し、加賀谷に通う。そして沙耶の助手席に座り、峠の走り屋達とも交流を深めて
いった。窮屈な家で育った彼女にとって、それは背徳的な魔力を持った、自由そのものだった。那由他を含め、誰もがこの日々が永遠に続くと思っていた。そ
う、誰もが――。
「そう言えば、那由他ちゃん免許取ったんだって?」
沙耶が中古車雑誌を片手に、Z32の運転席から那由他に話しかける。
「そうですよー、原付ですけどね、これで少しは峠に来るのも楽になる、って感じです。」
那由他はそう言うと沙耶の手から中古車雑誌を受け取り、車にへと目を通す。峠に通い詰めたおかげで、彼女にも車の知識は人並み程度に付いた。FD3S、S15、JZA80……数々の車が並ぶが、沙耶が指差したのは一台の黄色いスポーツカー、HCR32だった。
「それじゃあ、次は車だね。……例えば、これなんて、どうかな?ボディカラーはオールペンされちゃってるみたいだけど、それ以外は目立ったチューニングも
ないし、走行距離も少ないよ。同じ32でもBNR32は4WDだしRB26DETTって言う凄いエンジンを積んでて速いけど、那由他ちゃんは私みたいにド
リフトしたいんでしょう?それなら、やっぱりFRだよー。」
沙耶の指差す車に目をやる那由他。しかし、其の車は彼女にとってあまり魅力的には映らなかった。沙耶のZ32が目に付くからだ。
「あ、其の顔はZ32を考えてるって所かな?だめだよー、Z32なんて。見た目は綺麗なスポーツカーだけど、走り屋の車として見ると重たすぎる車体にチューンの難しいVGエンジンといい事無し。特に初心者にはお勧めできない、かなー?」
沙耶に釘を刺され、罰の悪そうな顔をする那由他。それを察したのか、沙耶はすかさずフォローを入れる。
「でもさ、このHCR32のボディカラーって那由他ちゃんのよく着てるパーカーと同じ色じゃない。それに、Zとスカイラインの違いはあれど、同じ“32”だよ?私のZと那由他ちゃんのスカイライン、32コンビ、なんちゃって!」
其の言葉に思わず噴出す那由他。しかし、彼女の頭の中には沙耶と共に峠を駆け抜ける自らの姿が描かれていた。其れが叶わぬ願いだとも知らずに。
其の日は雨が振っていた。那由他は原付が出せず、仕方なく沙耶に迎えに来てもらい、そのまま加賀谷を訪れていた。加賀谷の登りを走ってゆくZ32。其の車内で、沙耶と那由他は何時も通りと会話をしている。
「今日はついてなかったねー、那由他ちゃん。雨だと流石にバイクは辛いよねー……女の子は特に服を濡らしちゃうわけにもいかないし。まあ、今日は私がタクシー代わりだと思って、ゆっくりしていきなよ。」
「お姉ちゃん、本当に今日はありがとう。まさか私の電話に飛んできてくれるなんて思いもしなかったから、嬉しいです。」
「ふふ、言ったでしょう?那由他ちゃんは妹みたいなものだって。今日も楽しんでいってね。」
山頂に到着したZ32を大勢の走り屋が取り囲む。それは四天王の中でも彼女――沙耶が異端とされるからだった。馴れ合いを嫌う他のメンバーと違い、沙耶は誰とでも分け隔てなく平等に接す。
それを苦々しく見つめている男が居た。同じ四天王の一人であり、青いS13を駆る男、永瀬 渉である。
「――ったくよぉ、沙耶は自分の立場ってものを分かってねえんだよ。もっとこう、威厳と言うか、ドンと構えてないと……。」
其の発言に呆れた様子で返すのは、黒いFC3C乗りであり、同じく四天王の一人である烏羽 三月であった。
「お前は逆に血の気が多すぎる。今日もこの天気の中私とやりあう気か?負けず嫌いもいいが、これでお前の何敗目だ?」
「烏羽は無敗、永瀬は既に二十敗って所ですね。私が知りうる範囲だと。」
二人の口喧嘩に横槍を刺すのは、緑のJZA70のドライバーであり、同じく四天王と呼ばれる存在――本条 晶だった。
「まあどっちにしろ、彼女のような走り屋が居てもいいのではないでしょうか?加賀谷に活気が出る、其れはいい事です。」
三者三様にため息を吐きつつ、沙耶の様子を眺める。どうやら彼女は今夜も初心者(ルーキー)にコースを教えるべくバトルを受けるらしく、今日の相手は紅いSW20 MR2に乗る女性の走り屋であった。
「あ、あああああのっ!私、宮澤 一穂(みやざわ かずほ)って言います!今夜は柚之原さんと走れて光栄です!よ、宜しくお願いします!」
一穂と名乗った其の走り屋の緊張を悟ったのか、沙耶は優しい言葉をかける。
「一穂さん、緊張せずほら、リラックスリラックス。SW20の1型はピーキーなんだから、こういった雨の日はドライバーが常にコントロールできる状態じゃないとね!でも、綺麗に手入れされたいい車。きっと、あなたを助けてくれるはずよ。それじゃあ、走りましょうか!」
スタート地点に並ぶ二台のスポーツカー、戦闘力の差は明らかだが、沙耶はこう言った相手に対し、思いやる運転に関しては天才的だった。AE86から
BCNR33まで、どのような車とバトルを行なっても、相手に無理をさせない、限界を超えさせない。それが彼女を慕う走り屋の多さの理由の一つでもあり、
また彼女の強さの秘密でもあった。
「それじゃあ、行きますよー!」
今ではすっかり沙耶専属のスターターとなった那由他が、二台の真ん中に立ちカウントを始める。そして、“最期の”バトルが始まった。
「嘘……お姉ちゃん?」
ガードレールとSW20の間に挟まれ、大破したZ32。
「沙耶、しっかりしろ!直に救急車が来る!しっかりしろ!」
助手席側は抉られ、運転席はSW20が突き刺さり、其の流麗だった車体は原形を留めていない。
「柚之原さん、あああ、ああ、わた、私のせいで……!」
飛び散った破片と、ばら撒かれたオイル。
「神碕!危ないから近づくんじゃない!」
足元に触れる、ガラスと油の感触。体を叩く、雨の音。
「那由他ちゃん……私、一穂さんを守れた……?」
其れが、柚之原 沙耶の最期の言葉だった。
柚之原 沙耶の葬式に走り屋たち、いや、峠の人間は誰も呼ばれなかった。沙耶の妹が拒絶したためだ。残された彼らは、沙耶の事故現場を前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
「お姉ちゃんのZ32、廃車になっちゃうんですか?」
ああ、もう原型が残って居ないからな、と解体屋の男が無愛想に答える。目の前で持ち上げられ、スクラップにされていくZ32。悪夢のような光景に、那由他は吐き気を堪えきれず、その場に嘔吐した。そして、其れから先の記憶は彼女にとって定かではない。
沙耶の面影を求め、加賀谷に顔を出すものの、其の姿は嘗ての元気だった少女とは違い、生気を感じられないものだった。峠の走り屋たちはそんな彼女を何と
か励まそうとしたが、どれも無駄だった。そして彼女の周りの走り屋達は一人、また一人と去って行き、加賀谷に嘗て君臨した四天王も自然消滅。全てがあの日
を境に一変した。だが、全てが失われたわけではない。事故から二年後、那由他は偶然にも一台の車と出会う。黄色いHCR32。それは嘗て、沙耶と誓い合っ
た車。彼女が其の車を手に入れるのは必然だった。独学で腕を磨き、只管に峠を攻める。全ては唯一つ、「二度と沙耶のような悲劇を起こさない」ため。その為
には潰し屋紛いの行為も行なった。彼女の行為で峠を去った走り屋も少なくは無い。だが、其の歪んだ願いも、祈りも無残に打ち砕かれようとしていた――。
「――碕、神碕!大丈夫か!?」
三月の言葉で那由他は“現実”に引き戻される。
「……大丈夫、ただ、“あの頃”を思い出していただけ――……。」
沙耶の墓標に缶コーヒーを供え、二人は過去へと祈りを捧ぐ。これから起こりうるであろう出来事から、彼女のような悲劇が起きないことを願いながら。
「さて、それで永瀬の件だが……。奴は私を狙っている。そうじゃなかったのか?」
祈りを終え、那由他に問いを重ねる三月。
「知らない。六甲から来た香坂って男はFC乗りを狙ってるって言ってた。でも、本当のところはどうだか解らない。だから、警告と確認を兼ねてアンタの所を訪れた。……こんな余計なオマケが付いてくるとは想像もしてなかったけどね。」
三月は諦めたようにため息を吐くと、FC3Cに乗り込む。
「私を守ってくれるのか……?FC……?」
だが、其の様子を見た那由他は語気を荒くして言い放つ。
「アンタねえ!仮にも“四天王”だったんでしょ?それに、アンタが心配する相手は自分じゃない!あの紅いFCの奴でしょうが!人に御守押し付けておいて、自分は神様にお祈り?虫唾が走る。忘れてない?あいつも“FC乗り”だってこと!」
其の言葉に三月は表情を変えると、慌てた様子でFC3Cに乗り込む。
「頼む、繋がってくれ……ッ!」
先程よりも強い懇願を籠め、携帯電話からダイヤルする。だが、相手が出ない事を知った三月は、那由他を助手席にへと招き入れると、FC3Cを加賀谷市街に向けて急加速させる。己が撒いた種を、最悪の結果にさせないために――。