180SXとの初陣から数週間後。敦司のRX-7はマフラーや大容量ラジエター等、外装には見えない部分に手を加
えられ、所謂ライトチューンと呼ばれるレベルにまで進化していた。尤も、加賀谷の走り屋達から分けてもらったパーツであり、彼自体の財政状況は決して変
わってはいないのだが……。しかし、彼自体の心理は"あの夜"を境に変わり、頻繁に加賀谷に顔を出し、走り込む様になっていた。三月が同乗する機会も減
り、一人でもそれなりの走りが出来るようになっていた。――少なくとも本人と、加賀谷の大勢の走り屋達はそう思っていただろう。ただ一人を除いては。
月が峠を照らさない、雲に覆われた夜。この夜は不思議と走り屋が少なく、敦司のRX-7と澄晴のワンビア、そして数台の車が存在するのみだった。その中
にはノーマル然とした外観を持つ黄色いHCR32――あの夜に居たマシンも含まれていた。走る相手を求めるわけでもなく、駐車場の隅で息を潜め、敦司の
RX-7を只管に睨みつけるようにドライビングシートに座る少女。彼女の心の中には強い憤怒と獲物を見つけた悦び。それらの感情が渦巻いていた。どれだけ
の時間が経っただろうか。何台かのマシンが去り、頂上に残されたマシンがこの三台だけになった頃。少女はタイミングを見計らい、RX-7に向かい足を進め
る。己の歪んだ感情を表に出さず、その表情には敵意の無い笑みを浮かべながら。
「すいません、最近話題のFC乗りのお兄さん、で合ってますか?」
突然見知らぬ少女に話しかけられ、困惑する敦司。だが、澄晴は其れを意ともせず、話を続ける。
「ああ、初陣で180SXをぶっちぎったとんでもねー野郎だよ、コイツは。お嬢ちゃんの予想大当たり、ってやつだ。」
「おい、何を勝手に……。」
「いいんだよいいんだよ、ファンが出来るなんて羨ましいじゃねえか!まったく、衝撃的なデビューをした奴ってのは困るねぇ……。」
嫌味そうな笑いと共に、敦司の肩を叩く澄晴。だが、それは友人に接する態度であり、決して本気ではないのは明らかだ。
「それで……俺に何の用なのかな?……つっても走り始めたばかりでファンだとかコイツが言うような事じゃないだろうけど……。」
澄晴の様子に呆れながら、少女に言葉を投げかける敦司。すると、少女は話を切り出した。
「私、最近走り始めたばかりなんですよ。それで、似た境遇のRX-7のお兄さん……あ、名前を名乗ってなかったですね。私、神碕 那由他(かんざき
なゆた)って言います。えーと……それでですね、もし宜しければ、一緒に走って此処の走り方を教えてもらえないかなー、なんて……。」
たどたどしくも、敦司に懇願する少女。敦司は少し考えた後に、言葉を選びながら口を開く。
「神碕さん、俺も走り始めたばかりで正直人様に教えられるようなもんじゃないんだけど……例えば、黒いコスモの女の人、烏羽 三月って言うんだけど、そう言う人に教えてもらうってのは無理なのかな?」
「無理ですよぉ!敦司さんは知らないかもしれませんが、烏羽さんは気まぐれですし、私みたいな初心者なんて話し相手にすらなってくれませんよぉ!……だから、お願いします!」
少女の祈るような言葉を無碍にするわけもいかず、敦司は其れを承諾する。彼女の本心など知る由も無く――。
「解ったよ、神碕さん。ただ、俺も正直上手いってわけじゃないからそんなに期待はしないでくれよ。」
「『那由他』でいいですよ。どうも『神碕』って苗字で呼ばれるのは好きじゃなくって……。そうそう、私の車はあそこのスカイラインです。見ての通り、殆どノーマルですけどね。」
那由他の言葉に、澄晴は妙な違和感を覚えた。彼女はノーマルだと語るそのスカイラインだが、大容量化されたインタークーラー、ボンネットに大きく刻まれ
たダクト、そしてバンパーに付いた無数の飛び石の痕と、決して「初心者の走り」とは思えない適度に消耗したタイヤ。全てが彼女の言葉と矛盾している。澄晴
も決して上手いと呼ばれる腕前を持つ走り屋ではない。だが、彼は免許を取る前からギャラリーとしてこの加賀谷を訪れ、幾千の走り屋の車を見てきた男だ。そ
の彼の経験と直感が、このHCR32は危険であると告げている。これは敦司を陥れるための罠だと――。
「敦司、このバトルは降りろ。あのHCR32は『初心者』なんかじゃねぇ、あの時の180SXや他の加賀谷の連中とは明らかに違う。下手すりゃ烏羽の姉ちゃんと同レベルの奴かもしれねえ。明らかに負け戦だ。乗るな!」
澄晴は警告をするが、敦司はその言葉に耳を傾けない。――いや、経験の浅い者なら誰もこの言葉を信用はしないだろう。目の前に居る少女は免許を取ってからさほど年月が経っていないように見え、その愛車のHCR32もノーマル然とした姿なのだから。
「馬鹿、考えすぎだよ。それにお前、『加賀谷にはレベルの高い走り屋が居ない』ってあの夜言ってたじゃないか。それに、あんな女の子が三月さんと同レベル?冗談も程ほどにしとけって。」
澄晴は舌打ちをすると、強引にRX-7のドアを開き、その助手席にへと乗り込む。敦司を守る。"三年前"の二の舞だけは起こさない。其れは彼が敦司を峠に引きずりこんでしまった時から立てていた誓いだったからだ。
「信じないならそれでもいい。だけど、俺も付き合う。決してお前を一人にはしない。……其れくらいの我侭は許してくれ。」
言い争いをする二人を運転席から眺めながら、那由他の心の中の闇はより深さを増していた。
「(あの茶髪、私の車を見た途端に表情が変わった――。さては感づかれた?いや、まさか。どちらにしても、ドライバーがアイツである限り変わりは無い。私に出来る事は奴を叩き潰す事。『お姉ちゃん』の敵を討つこと――それだけなんだから)」
スタートラインに二台のマシンが並ぶ。
「俺が助手席から手を突き出してスタートの合図をするから、指が全て折りたたまれた時点でスタートだ!解ったか!?」
澄晴がそう叫ぶと、二台のドライバーは互いに頷く。そしてカウントダウンが始まり――復讐の夜が、幕を開けた。
加速で勝ったのは敦司のRX-7、だが、其れは意図的に那由他がアクセルを抜いた結果であり、此の先の展開のために必要なステップだった。
「(あの夜から少しは手が加えられたみたいだけど、馬力じゃ私のHCR32の敵じゃない。だけど後ろに付いたのは――潰すため。)」
「(最初の幾つかのコーナーは様子見。巻き添えを喰らうような下手糞じゃあ御免だから。此の先の低速ヘアピン。そこで先ずは仕掛ける!)」
一定の距離を維持し、RX-7に食いつくHCR32。其れは那由他が熟練したドライバーである事を示すには十分な物だったが、この場で其れに気付いてい
る者は澄晴、唯一人だった。だが、彼の焦りを意ともせず、敦司は自らのペースで峠を進む。少女の正体も、その胸の内も知らず――。
多くの走り屋が飲み込まれた場所、そう、あの低速ヘアピンが迫る。その直前のストレート。この場で状況は一変した。ヘッドライトをハイビームに変更し、
アクセルを強く踏み込み、一気にRX-7との距離を詰めるHCR32。RX-7のバックミラーから見えるはずの視界はヘッドライトで潰され、HCR32と
の距離を掴む事は出来ない。そして敦司がコーナーへの進入体勢を取った瞬間だった。リアバンパーに感じる鈍い感触。其れは、HCR32が「意図的に」接触
した事を示していた。接触の反動でテールが流され、コントロールを失うRX-7。敦司は反射的にカウンターを当て、車体の姿勢をコントロールするが、
HCR32の姿は嘲笑うかのように其の後ろに存在し、もう一度仕掛ける機会を狙っていた。
「流石に低速コーナーじゃあ車体を立て直す余裕くらいはある、か……。まあ、其れくらいの腕は持っていて紅とこっちとしても"潰し甲斐"が無いからね。さあ、此の先何処まで足掻けるか、見せてもらおうじゃない、RX-7のお兄さんッ!!」
RX-7の後ろで咆哮を上げるRB20DETエンジン。其れは2.3リッターにボアアップされ、純正よりも大きなタービンに交換され、下手なGT-Rな
ら喰えるほどの戦闘力を持つ強心臓である。だが、其れを知る手段は敦司には無い。唯一解る事は友人の言葉が真実であり、彼女が自らに対し明確な敵意を持っ
ていることだった。
「畜生ッ!澄晴、すまん!お前の言葉を信用しなかった俺が馬鹿だった!コイツは――イカれてる!」
「詫びの言葉なんざ今更要らねえ!それより、コイツはお前を事故らせる気だ!だから、最後まで気を抜くな!烏羽の姉ちゃんに比べりゃ未熟かもしれねえが、俺がナビをする!勝ち負けなんざ関係ねえ、今はこの32から逃げ切る事だけを考えろ!」
突然自らに向けられた敵意に動揺し、コントロールを乱すRX-7。其れを挑発するかのように、後ろからプレッシャーをかけるHCR32。だが、決して前
には出ない。只管にRX-7の後ろに喰らいつき、仕掛ける機会を狙い続けるだけ。それは獲物を弄ぶ狩人の其れであり、どちらが有利かは誰の眼から見ても明
らかであった。
「中低速セクションで仕掛けるほど、こっちも馬鹿じゃあないよ。さっきの二の舞で下手に対処法を学ばれちゃあ、あたしの計画も全て水の泡だしね。高速S字が続くセクション。FCがガードレールに咲く紅い血の薔薇にになる、其れはさぞかし見応えのある光景だよねぇ!」
運転席で那由他はそう呟くと、アクセルをより一層強く踏み込む。全ての憎しみを、心の闇をRX-7と言う目標に叩きつけるかのように。
「くっ……張り付かれて引き離せやしねえ!澄晴、どうにもなんねぇのか!?」
「……奴の狙いが解った!此の先の高速ヘアピンだ。奴は低速コーナーじゃ簡単に立て直せる事を知っている。だから、一度コントロールを失えばどうにもならなくなる高速S字、其処でお前を潰す気だ!あの時の180SXと同じ事をやらかそうってわけさ!」
中低速セクションも終盤に差し掛かり、コーナーをあと少し抜ければ、連続のS字が待ち受ける高速セクションにへと突入する。相手の戦略が解っていても、
対策を立てられなければどうしようもない。澄晴は最良のパターンを、確実に来るであろう攻撃から敦司を守る方法を考えていた。そして高速ヘアピンの手前、
僅かなストレートに達した瞬間、彼の頭は一つの結論を叩き出した。
「フェイントモーションだ!お前も聞いた事くらいはあるだろう!あのS字では車体が右、左、右、左、右、左……と連続して車体が振られる。奴はその勢いを
利用して潰しにかかってくるはずだ!だが、こっちもその慣性を利用してやりゃあいい!――つまり、奴が仕掛けてくるであろう場所、第二コーナーで意図的に
車体を振り回して"こっちからスピンして"やるんだ!勝ち負けじゃねえ!お前も、お前のFCも傷つけさせやしねえ!これが俺の考えうる、最良の作戦だ!い
いか……俺の考えたタイミングで派手にブン回せ!そうすれば、奴は接触の機会を失って自滅する!俺を信じろ!」
ストレートが終わりを迎え、高速S字セクションにへと突入する。最初は右コーナー、スピードメーターの針は高速を維持し、車体は慣性に逆らいきれず流される。だが、そのままラインを維持し、車体をコーナーとは反対側に向ける。そして――。
「今だ!」
反対側に思い切りステアリングを切り込み、アクセルを強く踏み込む。白煙を上げ、グリップの限界を迎えるRX-7のタイヤ。だが其処に、HCR32のノーズが迫る。
「さあ、此処で終わりにしようよ、FCのお兄さん!奇しくも、アンタの初陣で180が潰れたのもこの辺りだったよねッ!運命ってのは、皮肉なモンだよねぇッ!」
RX-7のリアフェンダーを狙うラインで進入するHCR32。だが、その攻撃は眼前で避けられた。――いや、FCが自らスピンしたのだ。狙ったラインを
失い、コーナーとは反対側にノーズを向けるHCR32。だが、那由他は強くアクセルを踏み込むとそのテールをブレイク。こちらも自らハーフスピン状態にマ
シンを持ち込み、紙一重でガードレールへの接触を避ける。互いにテールを向き合わせ、停車する二台のマシン。勝敗など無い。デスマッチは此処で決したの
だ。
「……ッ!やるじゃないのさ、『FCのお兄さん』。まさか、あんな強引な方法であたしの攻撃を回避するなんてね。今までの連中には考えもしなかった方法だよ。――悔しいけど、アンタはあたしに勝った。その実力を認めるよ。」
HCR32の運転席から降りると、那由他は敦司に向かって毒を吐く。
「そっちこそ、怪我が無いようで何よりだ。……しかし、何でまた俺を事故らせようとした?あんな初心者のふりまでして……。那由他、お前の実力なら俺をぶっちぎる事だって出来たはずだ。なのに、只管後ろに張り付いて俺を潰す事に拘った。其れは何故だ?」
敦司はHCR32が無傷である事を確認すると、那由他に問いかける。
「気安く名前で呼ばないで欲しいんだけどね。…………まあいいわ。アンタに一応警告しておいてあげる。あたしは、"三年前"のような出来事が起こる前にそ
の原因を叩き潰す。その為だけにこの加賀谷を走ってる。だから、アンタがもし再び、私に――加賀谷にとって脅威になるようであれば、遠慮なく仕掛ける。そ
れだけは覚悟しておいて。あたしは、『誰も赦さない』。そう、誰も――。」
那由他はそう吐き捨てると、HCR32の運転席に戻ろうとする。だが、その腕を澄晴が押さえ、強引に静止させる。
「ちょっと待て、今お前は"三年前"って言ったな?まさか、お前はあの出来事の真相を知ってるのか!?頼む、教えてくれ!」
先程まで自らを殺そうとした相手に対する態度とは思えない、もはや懇願にも近い言葉で那由他に頭を下げる澄晴。だが、那由他はその手を振り払うと、愛車の運転席に乗り込んだ。
「……あたしは、"あの時"から時間が止まった人間だから――。」
そう呟くと、HCR32を急発進させ、那由他は去っていった。その場に項垂れる澄晴と、状況が理解できない敦司の二人を残したまま――。
「あの時、あたしが事故っていれば、お姉ちゃんの場所に行けたのかな――。」
バトルを終え、加賀谷の下りを走るHCR32。だが、その進路を塞ぐように一台のマシン――ユーノスコスモが停車していた。急停車するHCR32。道を塞ぐように横向きに停車しているコスモの前には、黒いスーツの女性――烏羽 三月が立っていた。
「やれやれ、漸く見つけたぞ、噂の"初心者殺し"のお嬢さん。色々と聞きたい事はあるが、先ずは何処から話を聞かせて貰おうか――。」
対峙する二人のドライバー。その視線は互いに敵意に満ちていた。
一方、頂上に戻ってきたRX-7の車内では、敦司と澄晴が互いに言葉を選び、会話が成立しない沈黙に近い状態が続いていた。
「三年前がどうとか言ってたが……一体何があったんだ?」
敦司の問いに対し、澄晴は言葉を考えていたようだが、意を決したのか、少しずつ口を開き始めた。
「三年前、あの頃は加賀谷の走り屋は強者揃いだった。FC3C乗りの烏羽、S13乗りの永瀬、JZA70乗りの本条、そして――Z32乗りの柚之原(ゆの
はら)。漫画みたいな話だが、『四天王』だなんて呼ばれて、こいつらを倒すために県外から走り屋が次々来て、そして憧れた走り屋達が腕を上げて……今の没
落した加賀谷からは考えられない、関東一円の走り屋達から注目されていた場所だったんだ。そりゃあもう、毎晩がお祭り騒ぎさ。ヘッドライトの残光とスキー
ル音、エキゾーストノートが何処までも響き、夜は俺たちの世界だった。……尤も、当時の俺は免許なんて持っちゃいなかったから、家の原付でやってきてたん
だけどな。だが、三年前のある日、悲劇が起きた。柚之原が事故死したんだ。彼女……柚之原
沙耶は馴れ合いを嫌う四天王の中でも一人だけ異質の存在だった。誰にでも平等に接し、誰とでもバトルを引き受けた。今にして思えば、加賀谷の走り屋達のレ
ベルが上がっていったのは彼女の功績が大きいんだが……皮肉にも、その優しさが彼女の命を奪った。……俺も、その時、その場に居たわけじゃないから全ては
知らない。だが、その夜を最後に四天王は解散し、走り屋達も数が減って行った。それでも残ってる連中は居たが……恐らくは、あの神碕って女にやられたんだ
ろうな。今の加賀谷に残っている当時の走り屋は、烏羽の姉ちゃんだけみたいなもんさ……。」
澄晴は普段吸わない煙草にへと手を伸ばすと、吐き捨てるように呟く。
「神碕……もう一度奴と出会えれば、俺は全てを――。」
頂上に一台残されたRX-7。その姿は孤独で、まるで今の加賀谷を象徴するかのようだった。
場所は変わり、加賀谷の麓付近。路肩に停車する二台のマシン。黒いコスモと黄色のHCR32。その脇には二人の女性が立ち、どちらが先に口を開くか、タイミングを見計らっていた。だが、三月が口を開き、その沈黙は打ち破られる。
「先ずは、君の名前から聞かせてもらおうかな、お嬢さん?」
三月の問いに那由他は侮蔑を籠めた態度で返答する。
「普通、こう言う時は自分から名乗るもんじゃあないの?ま、あたしはあんたの事をよく知ってるけどね。四天王の一人にして最も馴れ合いを嫌っていた異端
児……そして、最も加賀谷最速に近かった存在、“FC3C”乗りの烏羽 三月さん。あたしは神碕
那由他。“お姉ちゃん”から名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかしら?」
三月は若干表情を厳しくするが、あくまでも平静を装い、言葉を続ける。
「そうか……君が、沙耶が口にしていた――。それで、あんな行為を続けるのは何故なんだ?まさか、沙耶の復讐とでも言いたいのか?」
那由他は口調を荒げると、三月を睨みつけるようにして吐き捨てる。
「そうよ!あの夜、お姉ちゃんは自らの腕も知らない、未熟な大馬鹿野郎に殺された!だから、あたしはそいつを絶対に赦さない。そして、もう二度と同じ悲劇を繰り返させない。その為なら、調子付いた馬鹿の命の一つや二つ、軽いもんだと思ってる。あたしの命だって……ッ!」
その言葉を耳にした途端、三月は笑い始める。だが其れは那由他に対したものではなく、自嘲の念が籠った物だった。
「ふっ、ははははは…………滑稽だな、私も、君も。帰ってくるはずの無い、どうしようもない過去に縛られて、この場所に囚われている。そして、互いに自らの最期を此処で迎えてもいいと思っている。沙耶の奴、とんだ落とし子を残してくれたもんだよ……。」
だが、三月は表情を真面目な物に切り替えると、那由他に頭を下げて頼み込む。
「突然の頼みで驚くかもしれないし、引き受けてくれるとも思っては居ない。だが――私には嘗てのような時間が無い。だから、君に頼みたい。あの青年を、神
永
敦司を守ってやってはくれないか。私には彼をこの場所にへと引きずりこんだ責任がある。彼には三年前のような悲劇を起こして欲しくない。いや、誰にも死ん
で欲しくない。その為なら、私も君と同じく手段を選ばない覚悟だ。頼む。例え、私が此処から姿を消したとしても――。」
那由他は三月の様子に面食らいつつも、毒を吐きながらその言葉に返答する。
「……なんでアイツに固執するわけ?同じロータリー乗りだから?それとも、本当に引きずり込んだ責任感から?……どっちにしても独善的で、一方的で、あた
しには反吐が出る。だけど、考えてやらない事も無い。勘違いしないでよ。あたしはアイツの事を何とも思っちゃいない。それどころか、何時敵になってもおか
しくないと思ってる。だけど、あたしだって三年前の繰り返しは御免なの。……あんな無茶苦茶な奴、“誰か”が目を付けてないと危なっかしくて見てられな
い、それだけよ。」
那由他はオーバーリアクション気味にため息を吐くと、三月の方へ視線を向けなおし、言葉を更に続ける。
「それで?時間が無いってのはどういう事なのよ?まさか、アンタまで此処を去るって言うんじゃ無いでしょうね?」
三月は愛機のフェンダーに手を置くと、空へと視線を移して誰にともなく呟く。その言葉は諦めなのか、覚悟なのか……誰にも解らない。
「永瀬から連絡があった。転勤でこの街に戻ってくるとな。そして、ここ最近、加賀谷周辺の峠でダークグリーンのJZA70が目撃されてる。……皮肉だな。
加賀谷が没落した今、あの頃の連中が戻ってこようとしてるんだから。永瀬の奴は私とやる気らしい。互いに何度も走った身だが、あの頃とは状況が違う。どう
なるかは解らない。だから、最悪のパターンを想定したまでのことさ……。」
三月の独白に、那由他は表情を変え、明らかに動揺した様子を見せる。
「嘘……永瀬に、本条が帰ってくるですって!?」
「嘘じゃあないさ、じきに現われるだろう。三年間も沈黙を守っていた連中が何故、今になって動き出したのかは解らないがな。とにかく、あらゆる脅威から彼を守ってやってくれ。頼む……ッ!」
夜の闇の中、唯立ち尽くす二人の女性。その心の中に渦巻くのは、嵐か、過去への追想か――。