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序章 -Ignition-
紅いスポーツカーと黒いクーペ、二台の車が隣り合うようにして並んでいる。特徴的なエンジン音はこの2台が共に異質な
エンジン――ロータリーエンジンを
搭載している証だ。普段は大勢の観衆で賑わうこの場所も、今はこの二台の車と、その取り巻きと思われる車が数台存在するだけ。其れはこの場所が、この夜が
一度限りの特別な舞台で在る事を示していた。二台の中央に一人の男が歩み寄る。そして腕を突き上げ、カウントダウンを開始する。一つ、二つ、三つ、指が畳
まれる度に呼応しあうように響き合うロータリーサウンド。そして最後の指が畳まれた瞬間、二台の“ロータリーロケット”は白煙を巻き上げながら舞台にへと
踊り出た――。
冬も終わり、新たなる季節を迎えようとする大学のキャンパス。その駐車場に一台の紅いスポーツカーが止まっていた。車内ではその持ち主と思われる青年
が、携帯電話片手に何やら頭を下げている。
「はあ、10万円ですか……。はい、はい、分かりました。ではまた機会があれば……。」
青年は携帯電話を畳み、シートを倒すと一人ため息をつく。年式相応に"ヤレた"天井がこの車がそう新しいものでない事を物語っている。天井だけではな
い、ダッシュボード、ドアの内張り、そして彼が座っているシートもまた、それを強調するかのように、年月の経過を示していた。
「買ったときは云十万、売るときは二束三文、か……。」
もう一度ため息をつきながら、彼は助手席に置いた中古車雑誌を開く。読み古された其れは、幾つかの車にペンで印が書き込まれていた。ミラ、アルト、ワゴ
ンR……。どれもこのスポーツカー、マツダ・RX-7とは方向性の異なる、大人しく、平凡な車ばかりだ。
RX-7のオーナーである青年、神永
敦司は悩んでいた。その理由は単純である。年式も古くなり、維持費も高騰してきた“ガスガズラー”――RX-7を手放し、次の車を探すはずが、彼の思惑通
りに事態は進まず、未だにこの車に縛られているからであった。
“このような”車に乗っている事からも分かるように、彼も嘗ては車に情熱を注ぎ、夢を描いていた人間だった。高校生時代にアルバイトを掛け持ちし、親に
借金をしてまでRX-7を購入した時、彼はこの車を大切にし、その命尽きるまで乗り続けると自らに誓っていた。
しかし、現実は夢想家の願いを容易く叶えるほど甘くはない。実家を離れ、この六浦(ろくうら)に引っ越してきてから、彼とRX-7の関係は一変した。実
家からの仕送りが幾らかはあるとはいえ、家賃と生活費を賄い、さらにこのような車を維持し続けることは決して学生には簡単な事ではなかった。走る為に購入
したはずの車が、走る事を許さない。ロータリーエンジン搭載車は普通の車よりも維持費がかかる。燃費だけではなく、各部の消耗品含めて特別な――“見捨て
られた”未来のエンジンなのだ。
そしてそれはまた、この青年がその未来を“見捨てようと”する理由には十分であった。
一方その頃、RX-7の方へ歩み寄る一人の男がいた。髪を茶色に染め、肩の辺りまで伸ばしたその姿は今時の軽薄な若者を連想させるが、この場所――大学
のキャンパスに居ると言うことは、彼もまた此処の学生であることを示すには十分な条件だろう。
彼はRX-7の横に立つと、軽くサイドウィンドウをノックした。RX-7のオーナーである敦司が其れに気づくと、彼は助手席のドアを開け、その車内にへ
と乗り込んだ。
「よ、相変わらず悩んでんのか?」
見た目から想像できるような軽薄さ――それを示すかのようなヘラヘラとした笑顔で敦司に話しかける彼は、その事情を知っているのだろう。敦司の手から中
古車情報誌を取ると、印を付けられた車を眺め、ため息をついた。
「お前なあ、若いうちしかこういう車は乗れねえってのに、なんでまた“軽”なんかに乗り換えたがる?……勿体ねぇよ。」
軽、と言う言葉に侮蔑的なニュアンスを込めながら、助手席の青年は敦司に悪態を吐く。
「醒めちまったんだよ、ガキの頃の夢物語なんて、所詮現実を知らない子供の妄想だってな。」
敦司はそう言い放つと、中古車雑誌を青年の手から奪い返す。
「それより……。何か用でもあるのか?澄晴(すみはる)?」
助手席の青年――澄晴と呼ばれた男は、その反応を待っていたかのように、声のトーンを上げ、敦司に対してまくし立てる。
「そうだよ、そうなんだよ!実はさ、今夜すげえイベントがあるんだよ!どうだ?お前も行ってみないか?」
その言葉を聞いた敦司は呆れるようにため息をつき、冷静な口調で返事をする。
「どうせ、その『すげえイベント』とやらは加賀谷(かがや)である走り屋のお祭りだろ?俺はそういうのは卒業したんだ。他を当たってくれ。」
しかし、澄晴は動じない。さらに声を荒げ、興奮気味に語り出す。
「それがよ、今回は久しぶりに他の峠のチームが来て対抗戦をやるんだよ!普段よりギャラリーも多く集まるビッグイベントだ!そう言わずに、な?見て見るだ
けでも損はしないって!行こうぜ!」
「嫌だよ。俺は行かない。コイツが『ガスガズラー』なのは知ってるだろ。わざわざ興味ないことのためにガソリンなんて使えるかよ。」
敦司がそう言い放つと、澄晴は表情を曇らせ、懇願するような様子で敦司に頼み込んだ。
「……実はさ、俺のワンビア、また事故っちまって入院中なんだよ。何ならガス代は俺が持つ、それにノートも貸してやる!だから頼む!」
澄晴の事情を聞いた敦司は呆れた様子を見せると、シートを戻し、RX-7のエンジンを始動させた。
「それで?……何時頃に行けばいい?」
この時の彼はあくまでも悪友を助ける、その程度の認識しか持っていなかっただろう。だが、この行動が後に彼の運命を大きく変えることになるとは、この時
誰も想像していなかった。そう、誰も――。
夜の加賀谷峠。緩やかな坂道を紅いRX-7が登ってゆく。一目で見て“其れ”と分かる車が次々と追い越していくが、RX-7のドライバー――敦司は走り
屋ではない。気に止める事もなく、法定速度を守り、ゆったりと長いワインディングを走っていた。
「それで?今夜の『対抗戦』とやらはそんなに凄いのか?」
「ああ、県外からわざわざ遠征して来るんだ、こいつは盛り上がるぜ。」
そんな会話を退屈しのぎにしつつ、RX-7のアクセルを気持ち強く踏み込む敦司。山頂はもうすぐ其処だった。だが――山頂の様子は澄晴が語ったような状
況ではなかった。明らかに苛立ちを見せる男達と、困惑し、弱腰を見せる別の集団。その様子は決して“盛り上がる”と言う言葉とは程遠く、明らかに想定外の
事態が発生した事を示していた。
「……何か様子がおかしいぞ?本当に対抗戦なんてあるのか?」
状況が飲み込めない敦司が澄晴に問いかける。
「いや、こいつは――」
RX-7のドアを開け、澄晴は集団の元へ駆けて行く。どうやら対抗戦に参加する集団は二つに分かれているらしく、澄晴の知り合い――地元の走り屋たちは
AE86やEG6と言った低排気量の車両中心で構成されているようだ。それに対し、相手方はJZA80、BNR34、Z16A、NA2等の国産モンスター
マシンで構成されている。恐らく困惑の原因はそれであるようだ。いくら峠の下りとは言え、明らかに車格が違いすぎる。既に“そういった”世界に対する興味
を失った敦司にとっても、その程度の事は容易に想像が付いた。
「不味いことになった。今夜の対抗戦は……加賀谷の走り屋の不戦敗になっちまう。」
集団の元から戻ってきた澄晴が苦い顔で敦司に話しかける。
「やっぱり、車の格が違うからか?」
「それだけじゃない。今の加賀谷には……あれだけの連中とやり合えるだけの走り屋が居ない。車も、実力も違いすぎるんだ……。」
澄晴は遣り切れない気持ちを叩きつけるように吐き捨てる。
その時だった。峠を一台の車が駆け上がって来る音がその場に居た全ての者達の耳に届いた。普通のエンジンとは異なる異質なエンジン音、其れはその車が敦
司のRX-7と同じエンジン、ロータリーエンジンを積んでいることを示している。そしてそのエキゾーストノートは、その車がロータリーの中でも特に“異
端”であるエンジン――20B-REWを搭載している事を示していた。
「そうか、そうだった……。一人だけ、居たんだ。あいつらに対抗できる走り屋が……。」
澄晴、そしてその場に居た加賀谷の走り屋達にとってその音はまるで天からの恵みのようにすら思えただろう。しかし、其れは唯の期待の念ではなく、どこか
畏怖の念すら籠ったものだった。
ロータリー特有のサウンドと共に現われた黒いクーペ、それはマツダが生んだ異質の存在。バブルと言う時代が生み出した狂気の落とし子。純粋なスポーツ
カーではない。ラグジュアリークーペとして設計された其れは、心臓部に市販車唯一の3ローターを搭載し、ある自動車評論家をして“そのフィーリングは
V12にも匹敵する”とさえ言わしめた存在。そう――ユーノスコスモだった。コスモは峠を登ってきた時とは異なり、本来の性格であるラグジュアリークーペ
の姿を見せつけるかのように、ゆっくりと山頂の駐車場に停車する。そして、その車体から降りてきたのは長い黒髪を腰まで伸ばし、凡そ峠には似つかない黒い
スーツを纏った女性だった。其の姿を見た加賀谷の走り屋達は歓声を上げ、彼女を歓迎する。まるで救世主を待っていた民のように。
「おい、まさかあのコスモが“やりあえる”走り屋だなんて言うんじゃないだろうな?」
敦司は疑いの目でコスモを見つめつつ、澄晴に問いかける。
「そのまさか、ってやつさ。土壇場で救世主が現われるなんざ、まるで漫画の世界だが、こいつぁ面白くなってきやがった!」
澄晴はそう言い放ち、再びRX-7のドアを開けると集団の元へ駆け出してゆく。そして、BNR34の隣に並んでいたEG6が移動すると、まるで其処にコ
スモが来る事を期待するかのように、加賀谷の走り屋とギャラリーの目線が一斉にコスモと、其のドライバーである彼女に注がれた。
「やれやれ、私はただ、観戦に来ただけなのだがな……。」
彼女はそう言うと、BNR34の方に向かって歩き出す。
「君が今夜のお相手かい?……ここは一つ、君たちの顔を立てて“不戦敗”と言う事にしてはくれないだろうかな?」
彼女はマイペースにそう言うと、相手の反応を伺う様子で頭を軽く傾げる。
「不戦敗?やれやれ、加賀谷くんだりまで来たってのに、戦わずして帰れってかよ。加賀谷の走り屋もとんだ腑抜揃いだなッ!」
BNR34のドライバーが嘲るように言い放つと、其の取り巻き達も彼女を侮蔑するかのように笑い始めた。だが、彼女は眉一つ動かす事はなく、言葉を続け
た。
「何か誤解しているようだが、“不戦敗”になるのは君達の方だと言っているんだよ、私は。」
冷静に、かつ表情一つ変えずにそう言うと、彼女はBNR34のドライバーと、取り巻き達の方を向いて更に言葉を続ける。
「君達も、わざわざ県外まで来て負け戦をしたくはないだろう?これでも精一杯譲歩した方なんだがね。」
彼女の挑発的な言葉に苛立ちがピークに達したのか、取り巻きの一人が声を荒げる。
「このアマァ!人が大人しくしてたら調子に乗りやがってよぉ!?何ならこの場でタイヤじゃなくてお前を泣かせてやろうか!?」
だが、そのような恐喝にも動じる事はなく、彼女は己のペースを崩さずに言い放った。
「……そうか、人の善意を無碍にするのか。……もう少し賢いと思ったが、期待外れだったようだな。それじゃあ、お相手させてもらおう。……どうせ君達も其
れを望んでいた、だろう?」
彼女は軽蔑の目線を加賀谷の走り屋達に向けると、自らの車に向かって足を進める。だが、途中で敦司のRX-7に目線を移すと、そちらに歩み寄り、運転席
のドアを開けて敦司に話しかけた。
「FC3Sの前期モデルか。趣味がいい。……ハンデの無いバトルと言うのも退屈なものだ。君をバラスト代わりに使わせてもらうよ。」
「バ、バラスト代わりって……それも突然何を……?」
「ふふ、一夜限りのアトラクション、特等席で楽しめると思えば悪くは無い、君は幸運だよ。」
彼女は半ば強引に敦司を連れ出すと、コスモの助手席に乗せた。其の車内はラグジュアリークーペと言った本来の性格とはかけ離れ、社外のバケットシートに
ステアリング、ブーストメーター等が装着され、何より特徴的だったのがトランスミッションがMT化されていることだった。そう、このコスモは“走る為の”
車なのだ。本来であれば、敦司のRX-7こそこのような改造が施されてしかるべきなのだろう。だが、現実は違う。彼女は、そしてこのコスモは本来の目的か
らかけ離れた“異端”の存在なのだ――。
突然の事態に戸惑う敦司を乗せたまま、コスモは緩やかにスターティンググリッドに向けて動き出す。そしてBNR34と並んだ時、全てが始まった。
深夜の加賀谷峠。白いBNR34の隣には先ほどまで止まっていたEG6ではなく、黒いユーノスコスモが止まっている。
RE雨宮製のエアロパーツを纏った其の姿はノーマルのラグジュアリークーペ然としたイメージを振り払うかのようなものだったが、自らと其の愛車を挑発する
ような車に対し、BNR34のドライバーは苛立っていた。
「クソッタレが……GT-R相手にシビックだって相当な侮辱だってのに、あんな勘違いしたような車、しかもドライバーが女?これじゃあ勝っても恥だぜ……。まあ、あの女はあれだけの大見得切ってくれたんだ、精々泣かせてやろうじゃねえか……。」
一方、コスモの車内ではBNR34のドライバーの苛立ちを感じさせないような、ゆったりとした空気が流れていた。スターティンググリッドに並んでから4
点式のシートベルトを締め、軽くストレッチを行なう其のドライバーの姿はバトルに挑む其れとは異なり、まるでクルージングでも行なうかのようなものだっ
た。
「君もそう緊張しない方が良い、アトラクションに乗るときにそう体を強張らせてると楽しめるものも楽しめやしない。楽にしていい。――ああ、そうそう。まだ自己紹介をしていなかったね。私は烏羽 三月(うば みつき)だ。宜しく。」
三月と名乗った其の女性はあくまでもマイペースに自己紹介を済ませると、「次はお前だ」と目線で敦司に合図する。
「か、神永……敦司です。でも、俺は走り屋なんかじゃ……。」
「ほう、それじゃあ今日がギャラリーとしてのデビューって所かな?あんな"良い車"に乗ってるんだ、勿体無い。今日は存分に楽しんで行ってくれ。――そして、夜の魅力を知ると良い。」
冷静ながら、どこか飄々とした様子で敦司の話を流すと、三月の表情は一変した。
「さて、それじゃあ一夜限りのジェットコースター、楽しんでもらおうか――。」
2台の間にスターターが立ち、カウントを開始する。指が一つ、また一つと折り畳まれるたびに大きくなってゆくエンジンの鼓動。そして、最後の指が折り畳まれた瞬間、2台のマシンは悲鳴にも似たスキール音と共に加速した。
「加速は弥坂のBNR34の方が上だ!やっぱアテーサにFRじゃ勝てねぇかァッ!?」
「GT-R相手にあんな車じゃ無理だったんだよ、車格が違いすぎらあ……。」
ギャラリーたちがそれぞれに2台を評論する。恐らくはBNR34のドライバーも似たような思いを抱いていただろう。だが、コスモのドライバー――三月は表情一つ変えずに、BNR34の戦闘力を計算していた。
「せっかくのアテーサもああもラフにアクセル踏んだんじゃ活かせやしない。馬力に物を言わせた素人、と言ったところか。……やれやれ、神永君にはそう面白
くないアトラクションとなりそうだな。申し訳ない。もう少し"撃墜(オト)しがい"のある相手だと良かったんだが――。」
スタートダッシュで差を開けられたコスモは、BNR34のスリップに入ると強くアクセルを踏み込む。そして第1コーナーの侵入で一気にスピードを殺し、BNR34のテールに接触する寸前まで差を詰めると、挑発するかのようにパッシングを行なった。
「ビタビタに張り付けやがった上にパッシングだと!?……畜生、抜こうと思えば直ぐに抜けるって意思表示かよッ!だけどなあ、こっちにだってR乗りのプライドがあるんだ、こんな車、しかも女に負けた日には恥なんてモンじゃねえ!絶対に突き放す!」
コーナー脱出前から強くアクセルを踏み込むBNR34のドライバー。それは愛車のアテーサを過信しているが故の行動であり、そしてBNR34もそれに応
えるかのように強烈なトラクションでコーナーを脱出する。一方、コスモは丁寧なアクセルワークでタイヤを労わりつつ、スムーズに加速を続けてゆく。低回転
が弱いロータリーの弱点を把握したそのドライビングは回転数をなるべく落とさず、まるで其のエンジンのフィーリングそのもの――抵抗がなくどこまでも加速
し続けて行くような、それを髣髴とさせるものだった。しかし、其れはギャラリーにはアピールの薄い運転でしかない。
「見ろよ、あのBNR34をよぉ!あんなに踏んでるなんて本気だぜ!こいつぁ勝負が決まったようなもんだな!」
「あのコスモ……加賀谷の連中は救世主だと言ってやがったが、とんだ救世主サマだったなぁ!あんなノロノロした運転じゃ俺のR32でも余裕だったぜ!」
其れはBNR34のドライバーの自尊心を満たすには十分だったが、三月にとっては挑発そのものだった。愛車のエンジン音越しに聞こえる微かなノイズ。其れは三月に"少しばかりのイタズラ心"を起こさせるには十分だった。
「さて、それじゃあ……アトラクションの本格始動と行こうか。この舞台(ステージ)、どうやら観客は君一人では無いようだしね。」
強くアクセルを踏み込むと、コスモの巨体はBNR34のイン側に切り込む。微かに鼻一つ分BNR34がリードしているが、直ぐ目の前に待ち構えている
コーナーの突入はドライバーの度胸をアピールするには十分なスポットだった。先にブレーキを踏み込んだBNR34。そしてクラッシュ目前でテールを流し、
グリップでコーナーを抜けるBNR34に対し、派手なドリフトで車間距離を詰め、ギャラリーにアピールするコスモ。どちらのドライバーがより優れているか
――それはもはや明確であった。
「(畜生!何が『アトラクション』だ!こんなイカれた運転なんて初めてだ!)」
サイドウィンドウ越しに見えるBNR34のボディを見ながら、敦司は心の中でそう悪態を吐く。嘗ては彼もゲームの中で"こういった"運転を行なっていた
時期があった。しかし、実車ではこのような経験など初めてなのだ。それは喜びや興奮などではなく、「恐怖」そのものだった。常識を超越したスピード、ドリ
フトにより流れる景色、獣の咆哮にも似たエンジンの叫び。どれもが異質であり、本能的に抗いようの無い恐怖を植えつけていた。
「なんだよあのコスモ!あんなビタビタに寄せてのドリフトだなんてイカれてやがる!命が惜しくねぇのか、狂った自信家かどっちなんだ!?」
「俺、あのコスモの走りを初めて見たけど……あんなぶっ飛んだドライバーだなんて想像してやいなかった。こいつは……勝てる、勝てるぜ!」
BNR34のドライバーの心には先ほどまでの余裕は既に存在しなかった。いや、それどころか焦りが生まれていたと言っても過言では無いだろう。なにせ相
手はあの重量級の巨体をまるでAE86やロードスターのように扱う「化け物」なのだ。勝ち目は無い――。だが、僅かばかりのプライドが、そして走り屋とし
ての意地が、アクセルにかけた足を離させない。もはや意思でも理屈でもない。本能がかろうじて車を操っている状態だった。そしてそれは、彼が思い描いてい
た未来予想図が音を描いて崩れ始めた瞬間でもあった。走りは次第にラフになり、思っていたラインをトレースする事すら叶わない。そして後方からはまるで背
後霊のように張り付くコスモのヘッドライトが嫌でもプレッシャーを与えてくる。
「クソッタレが!どれだけアクセルを踏んでも、どれだけ理想のラインを選んでも引き離せる気がしねえ!……畜生、負けるのか?負けちまうのか?」
「さあて、理想のラインを描けなくなってきた。アクセルワークは乱れ、どんどんラフになってゆく。――果たしてそれで、私を引き離せるかな?」
三月の表情が変わった。其れは先ほどまでの冷静な表情ではなく、獲物を追い詰めた獣のような歪んだ笑み。例えるならば、初めて自らの欲求が満たされたとでも言いたげな表情だ。そして其れは、助手席の敦司にとって更なる恐怖を植え付けるには十分なものであった。
「この女……笑ってやがる……ッ!」
中・低速コーナーが続くセクションを抜け、此の先には長いストレートと其処から一気にスピードを落とさせる奈落のようなヘアピンが待っている。勝負は其
処で決するだろう。――三月はそう睨み、愛機のエンジンに鞭を入れる。大型のタービンに交換されたその鋼の心臓はロータリー特有のノイズと共に派手なアフ
ターファイヤを発生させると、BNR34のリアにへと喰らいつく。だが、決してオーバーテイクはしない。"意図的に"アクセルを一定までで押さえ、
BNR34のテールに張り付いたままの姿勢を維持する。メーターの針が上昇していく中でのドッグファイト。しかし、ヘアピンより少し手前で三月はブレーキ
を踏み込む。まるでその後の結末が予想できていたかのように。
「ダメだ――止まれねぇッ!!」
ブレーキはロックし、BNR34の重い車体を必死に減速させようと試みる。だが、此処まで乗ったスピードを、この僅かな距離で殺しきる事は不可能だった。鈍い金属質の悲鳴。砕け散るガラス。バトルは此処で決した。
「さて、これでも続けるかい?」
頂上まで牽引されたBNR34の右サイドはもはや原形を留めては居なかった。歪んだ車体、明後日の方向を向いた前輪、粉々になったエアロパーツ。其れがほんの数分前までコスモとバトルをしていた車だと想像できるものは居ないだろう。
「――ッ!」
仲間の無残な姿に、言葉を発する事すら出来ない弥坂の走り屋達。そして、対抗戦は加賀谷の走り屋達の勝利で幕を閉じた。
「……あんたはイカれてる。何が『アトラクション』だ。あれは人殺しだ!」
数分前まで自らが体験した出来事、そして大破したBNR34を頭に描きながら、敦司は三月に悪態を吐く。
「――どうやら、楽しんでは貰えなかったようだね。残念だ。」
「君も『同類』だと思ったのだけれど――。」
三月は心底残念そうな顔をしながら、慎重に言葉を選び、敦司を説得しようとする。自ら招待したイベントだ。彼を「楽しませる」ことが目的であった彼女にとって、この反応は予想外だったからだ。
「今はまだ、興奮より恐怖が勝っているのかもしれない。だけど、また何時か此処を訪れることがあるはずだ。其の時は私に連絡してくれ。今回の詫びも兼ねて、出来る事なら何でもさせてもらおう。」
三月はそう言うと自らの連絡先を書いたメモを手渡し、コスモに乗って去っていった。残された敦司は、峠の走り屋達の様子を眺めながら、つい先ほどまで自らの身に起こっていた出来事を回想していた。
――何故、彼らはここまで車に夢中になれるのだろう。
――何故、彼らは命を賭けてあんな危険な行為を行なえるのだろう。
思考がまとまらず、頭の中でプラスマイナスの感情がグルグルと回転し続ける。だが、其の中で強く響いていたのは、三月の言葉だった。
「また何時か、此処を――?」
其の言葉が頭の中を反響し、思考力を奪う。その後の敦司の記憶は定かではない。ただ、澄晴を送り届け、気がつくと自室でメモを片手に一人佇んでいた。――心此処に在らず、と言ったところだろう。
其れから数日後、敦司はメモの番号にへと連絡を取る。何故そのような行動を行なったのか、それは彼にも分からなかった。だが、この瞬間、彼の人生は大きく動き始めた。